ゆるり

まあどうせなら、たのしいことをかんがえよかな

わたしの世界にいる人たち

私のいる世界には、傷ついた心の人が多い。いつもそうだ。

何となく何故なんだろうと思うことがある。

 

パソコン通信というものがあったころ、あるリアルタイムチャットに出入りしていたのだが、心が解体した人がたくさんいた。今のネット社会の縮図の様な感じで、実世界での人間との関わりが難しく、かつ、実世界にわだかまりや苛立ちがある、というひとが、慰め合ったり、蹴飛ばし合ったりしていた。彼らの大半というか、基本的な性格は穏便、温厚な人々なのだが、突如破壊的なスイッチが入ってしまったり、スイッチが入った状態でないと姿を現せないという人が何人もいた。

わたしが以前つきあった女性もそうだった。彼女は体のいい結婚詐欺だったのか、それとも単に心身が解体してしまった人だったのか、未だにわからないけど、どっちにしても、彼女は幸せではないことは明らかだった。彼女は嫌な思い出をいつまでも握りしめていて、決して離そうとしなかった。彼女なりに嫌な思い出に直面したくないと思っているようだったのだが、嫌な思い出を切り離すために、それに関連するすべてを根こそぎ自分から切り離した結果、彼女の生きられる世界は窒息してしまいそうなほど狭く、始終現れる立入禁止区域を避けるのに日々彼女は精一杯のようだった。

今といえば、私は宗教色の強いところによく出入りしている。大昔からある宗教だ。そこにも、似たような人が何人かいる。DV経験者だったり、失業者だったり(って私もだね)、神経症に近い状態だったり。

別に、人格的に壊れている訳ではない。何かがうまくいっていないか、うまくいっていないこと、いかなかったことをとても苦にし、疲れているか、怒っているか、悲しんでいる。ただそれだけなんだろうと思う。問題があるとすれば、彼らには体のいい出口があまり無いということか。出口をくぐるとき、わだかまりとともに彼らのアイデンティティも喪失してしまうようにも思う。その苦痛が取り除かれたとき、別の苦痛を見つけ出すのにやっきになるだろう。

私は傍観者なのか参加者なのかわかんないけど、気分のいい世界ではないのがどうも気に喰わない。