ゆるり

まあどうせなら、たのしいことをかんがえよかな

徹夜をしてしまうと

最近は、ほぼ自由業みたいなもんなので、いつ寝ようと、いつ起きようと、概ね文句は言われない。まぁそれはそれとしてだ。

 

こんなことを書くと怒られてしまうかもしれないが、わたしはクリスチャンながら、他の人より賛美だとか、祈りだとかは、あまり熱烈に取り組めない気がしているし、奇跡や、進化論など論争ネタの類いもピンとこない。

ただ、それでも私はクリスチャンなのだろうと自分では思う。

勝手気ままに生きながらも、破滅させられることも無く、どういうわけか、逃げ道がいつもあって、昔に意味もわからず嫌々ながらしたことが巡り巡って何故か私を救う。

「偶然だよ」と人は言うだろう。

まさにそうだと、クリスチャンでなければ、私も言うだろう。

別に「偶然」でもいいんだぁ。私にとっては呼び名はなんでもいい。

キリスト教では自分が予測し得ないこと、自分の力が及ばないことについても、漠然と期待することを教える。(こんな風にいうと、どやされるかもしれないけど、時に私はそう感じる。)

自分の領土の淵が一体どこまでか、自分の能力の限界はどこまでか、ということを心配しないで済む。気を散らさないで済むというのは気楽なことだ。

必要であれば与えられるという。どこまでなら与えられるかという限界は考えない。これはとても自由なことで、自分の領土の淵の淵まで、知らず行ってしまうだろう。目をつぶって車のアクセルをベタ踏みするようなものだ。

限界を自ら目算しなくて良い。よい偶然がたまたま重なれば、より遠くまでいける。偶然に対して期待する、オープンな態度だ。思いのほか遠くまで無事に飛べてしまった時、我々は「偶然」とは言わず「恵み」とか「御心」という。

もちろん、いつまでたっても飛べないときも、飛べはしたものの無事では済まない時もあるのだが。